八ヶ岳野辺山高原
高原野菜と酪農・観光の村

南牧村の歴史

旧石器時代から江戸時代

旧石器時代の狩りの様子

 南牧村における人類の歴史は約1万3千年前から始まったと考えられます。当時の人々は八ヶ岳の麓である野辺山(地区)で黒曜石製の細石刃を着用した槍を使い、ナウマンゾウやオオツノシカなどを獲物とする狩猟生活を送っていました。国の史跡である矢出川遺跡は日本で初めて細石刃が発見された遺跡です。

尖頭器(矢出川遺跡出土)

 旧石器時代が終わる今から約1万年前、この地に土器をつくる人々が生活していました。縄文時代の始まりです。南牧村の縄文時代の遺跡は志なの入遺跡や中の沢遺跡等、数多くありますが住居址はほとんど検出されていません。そのことから南牧村は定住する場所ではなく、狩場及びキャンプ地という位置づけだったのかもしれません。

 そして、今から約2千年前の弥生時代になると日本に稲作が伝わりました。南牧村の北にある佐久市では平地で水資源にも恵まれていたため、水稲栽培が可能であり、弥生時代の遺跡が多く検出されています。一方、南牧村は標高が高く冷涼な地で水温が低い千曲川の上流域というこもともあり稲作は難しく、弥生時代の遺構・遺物はほとんど検出されていません。

八ヶ岳の稲子岳が噴火して押出した泥流(888年)

 そして、西暦888年に八ヶ岳が水蒸気爆発をおこし崩壊しました。その際、発生した泥流により海尻地区と海ノ口地区の間に南牧湖、小海町にある松原湖が作られました。その後、平安時代末期に広瀬地区の平地に人が住み始め、南牧湖の水がなくなり干潟となった海尻地区や海ノ口地区、山梨県と長野県の要路に当たる平沢地区に集落が形成されていきました。

 鎌倉時代になり口分田制度が崩壊すると、私有地や管理する土地を多く持つ者が治めるようになりました。これを荘園と呼び、南牧村は佐久の伴野氏の伴野庄に属していたといわれています。

 その後、伴野氏の勢力が衰えると各地で領土争いの戦が相次ぎ、山城が多く造られました。南牧村はその頃、甲斐の武田氏による信濃攻略の最前線で村内にある山城はそれに関連するものと考えられます。中でも海ノ口城は武田晴信(信玄)初陣の場所として有名です。ただ、この初陣の話を証明する発掘調査は現在まで行われておらず、海ノ口城の守将だった平賀源心の存在を疑う研究者もいます。
 これ以降、農民は凶作と武田軍の物資運送の伝馬役に苦しめられ、逃亡者もかなり出たと伝わっています。このような百姓困苦の時代は戦乱の世が終わるまでしばらく続きました。

 農民を苦しめた戦乱の世が終わり江戸時代に入ると、戦乱を逃れていた農民は村に帰り、耕作を始めました。しかし農民の生活は決して楽なものではありませんでした。作物は粟、ひえ、そば、大根などで他に食用にするイクサを多く作って米などと交換していました。またこの時代、ほとんどの家で馬を飼っており、農耕に使った他に荷物運びの運賃や仔馬を売って現金を得ていました。
 江戸時代の南牧村は五か村(海尻村・海ノ口村・広瀬村・板橋村・平沢村)に分かれており、各村それぞれ年貢を納めていました。
 現在の野辺山地区は当時板橋村に属しており、寒気厳しく早霜のため作物が実らず、一度は開墾に入った農民もやめてしまい、その跡地は荒れ果てていました。そのため、冬になれば猛烈な吹雪により往来の旅人が凍死するような場所でした。そこで1686年、板橋村から2軒、平沢村から1軒の農家を移住させ茶屋3軒を建て往来旅人の救護をさせました。これが矢出原三軒屋の始まりです。

板橋村絵図(天保9年)

 高冷地という厳しい自然環境の中で、幾度もの凶作にあいながらも生き抜いてきた南牧五か村は、田畑の開墾も進んで生産も増加し、生活にもゆとりが出来た1688~1703年頃から人口も増加しはじめ、明治に至るまでは家の増築なども行われるようになりました。

明治時代から昭和時代

明治

佐久甲州街道を走った門司さん(海尻)の乗合馬車

 1874年(明治7年)、廃藩置県により、それまで幕府の直轄地であった野辺山地区は平沢・大明・広瀬・海ノ口の各村の一部となりました。大明村は板橋地区と川上村の樋沢地区からなる馬産・蕎麦・炭焼き・木材搬出等を収入源とする山間の集落でした。1889年(明治22年)には、上記の平沢村・大明村・広瀬村・海ノ口村に海尻村を加え最初の町村合併が行われ、現在の南牧村になりました。また、そのころ婦人会・青年団・農業協同組合などの団体がつくられました。交通では佐久甲州街道が県道となりました。明治中期には、アメリカから乳牛や優良な種馬を輸入し、牧場経営が試みられましたが失敗に終わりました。その後、カラマツによる造林を試みましたが、困難を極めました。

1871年(明治4年)

長野県が岩村田に佐久支庁を置く

1874年(明治7年)

海尻地区に大月学校、海ノ口に敦文学校ができる

海ノ口局(郵便局)の業務がはじまる

1875年(明治8年)

板橋村と樋沢村が合併し大明村になる

1879年(明治12年)

佐久地区は南佐久郡と北佐久郡に分かれる

1886年(明治19年)

南牧村に馬市場ができる

1888年(明治21年)

甲州街道が県道に編入され佐久甲州街道と呼ぶ

1889年(明治22年)

五ヶ村が合併して南牧村となる

1901年(明治34年)

大災害、八ヶ岳崩れる

1903年(明治36年)

南牧信用組合ができる

1905年(明治38年)

佐久地域でも自動車が走るようになる

1910年(明治43年)

千曲川大洪水

 

大正

馬市場の様子

 南牧村の農業は、新しい時代の幕開けです。軍馬の改良生産、キャベツ、馬鈴薯採取の組合設立、水稲の試作などが行われ、相当の成果があげられました。また、現在の海ノ口地区の市場では馬市がたち、多くの馬や人たちで賑わいました。

 1915年~1919年(大正4~8年)にかけ、佐久鉄道(現在のJR小海線)が小諸市から小海町まで開通しましたが、南牧村まで鉄道は建設されず、文明の波はまだ届きませんでした。

1916年(大正5年)

海ノ口に消防組ができる

1919年(大正8年)

佐久鉄道、羽黒下駅~小海駅間が開通

1923年(大正12年)

関東大震災

 

昭和(戦前)

昭和7年、海ノ口駅周辺※手前に競馬場がみえる
昭和初期の野辺山付近※開墾される前の草原地帯

 1935年(昭和10年)に小海線が全通し(小淵沢駅~小諸駅)、これに伴い新しいSLであるC56が10輌配置され、新しい物流時代の幕が開けました。この年、小さな規模の出荷組合ができ、現在隆盛な関西市場向け高原野菜栽培の第一歩を踏み出しました。この時期は、白菜を中心に大根などが栽培され、年々生産が増大されました。

 しかし、第二次世界大戦が近づくと政府の施策のため次第に衰退しました。戦前の南牧村の産業としては、農業に加え、タクアン生産、木炭の生産、材木の伐採出荷などがあったようです。このころの農業は今の様にトラクターなどがあるわけではなく、牛や馬の力を借りた人力が主で、相当な困難がありました。機械による開墾は昭和30年代まで待たなければなりません。
 また、この頃、野辺山地区にある東京ドーム635個分の敷地が国によって買収され、軍の兵舎や訓練施設が建設されました。(詳しくは信州大学作成資料:「野辺山の戦争・開拓資料室」「小学生向け資料」をご覧ください)

1931年(昭和6年)

満州事変はじまる

1935年(昭和10年)

小海線全通(小諸駅~小淵沢駅)

1938年(昭和13年)

日華事変おきる

1940年(昭和15年)

ガソリンの欠乏で小海線のディーゼルカー廃止

1941年(昭和16年)

太平洋戦争がおきる、南牧国民学校となる

1942年(昭和17年)

野辺山地区が東部五一部隊(鉄砲隊)の演習地として900万坪が買収される

 

昭和(戦後)

野辺山高原の開墾のようす※手作業でカラマツの根を取り出す
牛車や馬車が交通手段

 太平洋戦争が終わると、野辺山地区を中心に開拓が進みますが、相変わらず人力による開拓作業は困難を極め、加えて寒さの厳しい冬の生活もあり、先人達の苦労は並々ならぬものがありました。昭和30年代に入ると野辺山地区のような高冷地に適したレタスやキャベツなどが生産され始めました。食文化の洋風化も相まってレタス等の需要が増した結果、南牧村は現在にいたるような高原野菜の一大産地へと発展しました。

1946年(昭和21年)

終戦後、野辺山地区原の入植がはじまる

1947年(昭和22年)

野辺山開拓農協が誕生、南牧中学校ができる

1960年(昭和35年)

小海線にディーゼルカーが走る/南牧村商工会発足

1964年(昭和39年)

八ヶ岳中信高原国定公園に指定される

1976年(昭和51年)

国道141号線海ノ口バイパス開通

1986年(昭和61年)

野辺山バイパス開通

1987年(昭和62年)

野辺山地区に歴史民俗資料館(現在の美術民俗資料館)ができる

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